イギリスでは、病院の窓口でお金を払いません。手術も入院も出産も、国営医療サービスNHS(ナショナル・ヘルス・サービス)が原則無料——財源は保険料ではなく税金です。ただし代償があります。専門医の診察や手術を待つ「待機リスト」は728万件(2026年5月)、治療開始までの中央値は約3か月、1年以上待つ人も約10万人。「無料だが、待つ」制度はどう設計され、何が起きているのか。自己負担に上限がないアメリカを扱った医療費破産の回と対をなす、医療編の完結です。英国駐在・留学で払う「移民健康サーチャージ」の最新額まで、一次情報で整理します。
仕組み:税金で運営、窓口はほぼ無料、入口はGP
NHSの費用は、約8割が一般税収、約2割が国民保険料(社会保険料に相当)でまかなわれ、患者の窓口負担は収入全体の1%程度にすぎません。イングランドの保健・社会ケア省の予算は年約2,020億ポンド(約40兆円)規模。「使うときにお金を取らず、税金で先に集める」のが基本設計です。
| 項目 | NHS(イングランド)の扱い |
|---|---|
| 外来・入院・手術・出産 | 原則無料(窓口負担なし) |
| かかりつけ医(GP)の診察 | 無料(地域の診療所に登録して受診) |
| 救急外来 | 無料 |
| 処方薬 | 1品目9.90ポンド(約2,000円)の定額。高齢者・子ども等は免除。スコットランド・ウェールズ・北アイルランドは無料 |
| 加入手続き・保険証 | 保険証はなく、居住していれば対象(保険料の納付歴を問わない) |
もうひとつの柱がGP(かかりつけ医)のゲートキーパー制です。住民はまず地域の診療所にGP登録し、体調が悪ければGPを受診。専門医や病院の検査・手術は、GPの紹介がないと原則受けられません。日本のように「いきなり大学病院へ」という受診はできない仕組みで、限られた医療資源を振り分ける関所の役割を果たしています。
なぜ生まれたか:1948年・「ゆりかごから墓場まで」
NHSは1948年7月5日に始まりました。設計図は、第二次大戦中の1942年11月に公表されたベヴァリッジ報告。戦後の英国を作り直すため「ゆりかごから墓場まで」の社会保障を掲げ、その土台として無料の医療を求めました。これを保健相アナイリン・ベヴァンが1946年のNHS法で形にし、英国は全国民に「利用時点で無料」の医療を提供した最初の西側の国になります。
「支払い能力ではなく、必要に応じて」——創設時の原則は今もNHS憲章に引き継がれています。誰でも・包括的に・利用時点では無料で。医療を「商品」ではなく「税金で支える公共サービス」と位置づけたことが、保険証も窓口精算も存在しない今の姿につながっています。
戦前の英国は、労働者本人だけが保険でカバーされ、家族や失業者は医療から漏れがちでした。戦時中の国家総動員で「病院を国が動かす」経験をしたことも、国営化への追い風になったとされます。
結果:待機リスト728万件・「待てない人」は民間へ
無料の医療は「価格」で需要を調整できません。そのかわりに調整弁になったのが時間、つまり待機リストです。NHSイングランドの公式統計(2026年5月時点)から現状を見ます。
| 指標 | 数字(2026年5月) |
|---|---|
| 待機リスト(紹介から治療開始までの待機案件) | 約728万件(実人数で約616万人。コロナ前の2020年2月は457万件) |
| 待機期間の中央値 | 12.4週(約3か月)(2019年4月は7.7週) |
| 18週を超えて待つ案件 | 約250万件。「92%を18週以内に」という基準に対し達成は6割強 |
| 1年(52週)超の待機 | 約10.5万人 |
- 待ちきれない人は自費や民間保険で民間病院へ向かいます。英国の医療市場調査会社レインバイソンによると、民間医療保険のカバー人数は推計843万人、民間病院の入院・日帰り手術は2025年に過去最多の95.3万件。調査会社イプソスの調査では、民間医療を使う・検討する理由の1位は「NHSの待機が長すぎる」(44%)でした
- 政府も放置しているわけではありません。2025年7月に10か年改革計画「フィット・フォー・ザ・フューチャー」を公表し、「病院から地域へ・アナログからデジタルへ・治療から予防へ」の3つの転換と、2029年3月までに18週基準(92%)の回復を掲げています。待機リストは2025年のピークからは減少傾向にありますが、コロナ前の水準にはほど遠いのが現状です
- 「税方式で無料」の制度は、平時は公平で事務コストも小さい一方、需要超過が価格ではなく行列に出る——NHSはその教科書例として、各国の医療制度論争で必ず参照されます
日本との比較:医療3部作の完結——「無料」と「青天井」の間
このシリーズでは、アメリカの医療費破産の回で「公的皆保険がなく、自己負担が青天井になりうる国」を見ました。イギリスはその対極の「税金で無料、ただし待つ国」。日本は、ちょうどその中間に位置します。
| イギリス(NHS) | 日本 | アメリカ | |
|---|---|---|---|
| 財源方式 | 税方式(約8割が一般税収) | 社会保険方式(保険料+公費+窓口負担) | 民間保険中心(公的は高齢者・低所得者等) |
| 窓口負担 | 原則ゼロ | 原則1〜3割 | プラン次第(免責額・上限が重い) |
| 負担の上限 | そもそも請求がない | 高額療養費で月数万円〜に頭打ち | 年1万ドル超の上限すら「恵まれたプラン」 |
| 専門医へのアクセス | GPの紹介が必須(ゲートキーパー制) | フリーアクセス(紹介状なしの大病院は特別料金7,000円〜) | 保険のネットワーク内に制約 |
| 待つか、払うか | 待つ(中央値約3か月) | 待機は比較的短いが、保険料・窓口負担を払う | 払えなければ受けられない・債務化 |
日本の強みは「フリーアクセス」と「高額療養費」の組み合わせです。紹介状なしでも(特別料金を払えば)大病院に行け、医療費がかさんでも高額療養費制度で月の負担に上限がかかる。一方で、保険料の負担感や健康保険の扶養をめぐる「壁」の議論のように、社会保険方式ならではの悩みもあります。英国型は「保険料の壁」が存在しないかわりに待機が長く、日本型は待機が短いかわりに毎月の保険料が重い——どちらの制度が優れているという話ではなく、「何で払うか(お金か・時間か)」の設計の違いです。なお、紹介状なしで特定機能病院などを受診すると初診7,000円以上の特別料金がかかるようになった日本の近年の改正は、実は「日本版ゲートキーパー」への小さな一歩ともいえます。
日本人に関係するケース:駐在・留学は「前払い年21万円」
NHSは居住ベースの制度なので、日本人でも英国に住めば使えます。ただし2015年からは、ビザで渡る外国人に移民健康サーチャージ(IHS)の前払いが義務づけられました。
- 駐在・就労ビザ:年1,035ポンド(約21万円)。ビザ申請時に滞在予定年数の全額を一括前払いします。家族分も同額かかるため、たとえば夫婦+子ども2人で3年駐在なら(1,035×2人+子ども料金776×2人)×3年=10,866ポンド、約220万円をビザ申請時点で払う計算です(会社負担とするか等は勤務先の規程を確認)
- 留学・ユースモビリティ:年776ポンド(約16万円)。18歳未満も776ポンドです。払えば在住者と同じくNHSを使えます(処方薬の定額などは別途かかります)
- 旅行者:GPの診察と救急外来は無料ですが、入院や専門的治療になるとNHS標準料金の150%を請求されます。日英間に医療の相互協定はないため、海外旅行保険は必須です。日本の健康保険の「海外療養費」で後から一部払い戻しを申請できますが、支給額は「日本で同じ治療をした場合」の基準で計算されるため、現地の高額請求はカバーしきれません
- 渡航後はまずGP登録。登録しないと専門医への紹介ルートに乗れません。緊急でない相談は電話・オンラインの「111」という振り分け窓口を使うのが現地の作法です
今日やること
今日やること
- 英国渡航・駐在・留学の予定がある人は、IHS(年1,035ポンド/学生776ポンド)×滞在年数×家族人数を計算し、資金計画(会社負担の有無)を確認する
- 短期渡航の予定がある人は、海外旅行保険の「治療費用」の補償額と、クレジットカード付帯保険だけで足りるかを確認する
- 自分の高額療養費の区分(月の限度額)を保険者のサイトで確認する——「上限のある国」の安心材料を数字で知っておく
よくある質問
Q. イギリスの医療は本当に全部無料なのですか?
A. 外来・入院・手術・出産などNHSの医療は原則窓口無料ですが、完全無料ではありません。イングランドでは処方薬が1品目9.90ポンドの定額(高齢者・子ども等は免除)、歯科も別建ての定額負担があります。また財源は税金なので、「無料」の実態は「税金で前払い」です。
Q. 待機リスト728万件とは、728万人が待っているという意味ですか?
A. 正確には「紹介から治療開始までの待機案件」の件数で、複数の治療を待つ人がいるため実人数は約616万人と推計されています(2026年5月・NHSイングランド統計)。緊急性の高い治療は優先されるため、すべての患者が一律に3か月待つわけではありません。
Q. 日本も税方式にすれば保険料はなくなるのですか?
A. 理屈のうえでは保険料という形はなくなりますが、同じ財源を税で集め直すだけなので負担総額が消えるわけではありません。また英国の経験は、価格ゼロの医療では需要の調整が「待機時間」に現れることを示しています。税方式・社会保険方式にはそれぞれ利点と課題があり、どちらが優れているとは一概にいえません。
Q. 英国留学中に病気になったら、日本の健康保険は使えますか?
A. 住民票を残して日本の健康保険に加入したままなら、帰国後に「海外療養費」の支給を申請できます。ただし支給額は日本国内で同じ治療をした場合の基準で計算され、治療目的の渡航は対象外です。学生ビザで6か月超滞在する場合はIHS(年776ポンド)を前払いしてNHSを使うのが基本で、短期留学なら海外旅行保険でカバーします。
参考リンク(出典)
※ 数値は2026年8月時点の公表資料にもとづきます。ポンドの円換算は1ポンド=200円の概算です。待機リスト等の統計はイングランドのもので、スコットランド・ウェールズ・北アイルランドは別制度・別統計です。民間保険の加入者数等は業界調査会社の推計を含みます。本記事は制度比較の情報提供であり、特定の政策の是非を主張するものではありません。個別のご判断は専門家・公式窓口にご確認ください。



