シンガポールでは、給与の約37%が毎月強制的に積み立てられます。本人が20%、雇用主が17%——日本の厚生年金の保険料率18.3%(労使合計)の2倍にあたる水準です。ただしこれは税金でも「仕送り型」の年金保険料でもありません。全額が自分名義の口座に貯まり、住宅購入・医療費・老後資金に使える。この仕組みがCPF(中央積立基金)です。持ち家率91.2%という数字を支えた設計と、その裏にある課題、賦課方式の日本の年金やiDeCoとの根本的な違い、そして「駐在員は加入できない」という日本人に直結するポイントまで、一次情報で整理します。
仕組み:給与の37%が「自分の口座」に貯まる
CPFはシンガポールの社会保障制度の中核で、市民と永住者の給与から毎月、本人と雇用主が拠出します。2026年1月からの拠出率は次のとおりです(月給750Sドル超の場合)。
| 年齢 | 雇用主 | 本人 | 合計 |
|---|---|---|---|
| 55歳以下 | 17% | 20% | 37% |
| 55歳超〜60歳 | 16% | 18% | 34% |
| 60歳超〜65歳 | 12.5% | 12.5% | 25% |
| 65歳超〜70歳 | 9% | 7.5% | 16.5% |
| 70歳超 | 7.5% | 5% | 12.5% |
対象になる月給には上限があり、2026年からは月8,000Sドル(約96万円)まで。月々の積立額は最大で2,960Sドル(約36万円)にのぼります。
計算例:月給5,000Sドル(約60万円)・40歳の会社員
本人負担:5,000 × 20% = 1,000Sドル(約12万円)
雇用主負担:5,000 × 17% = 850Sドル(約10.2万円)
毎月の積立合計:1,850Sドル(約22万円)——年間では約266万円が自分名義の口座に貯まる計算です。
積み立てたお金は、目的別に3つの口座へ自動的に振り分けられます。
| 口座 | 主な使いみち | 金利(年) |
|---|---|---|
| 普通口座(OA) | 住宅の購入・住宅ローン返済、一部の投資・教育 | 2.5%(法定の下限) |
| 特別口座(SA) | 老後資金(引き出しは原則不可) | 4%(2026年末まで下限保証) |
| 医療口座(MA) | 入院・手術などの医療費、公的医療保険の保険料 | 4%(同上) |
- 配分は年齢で変わり、若いうちは住宅に使える普通口座への配分が厚く、年齢が上がるにつれ医療口座への配分が増えていきます
- さらに合算残高の最初の6万Sドル(普通口座分は2万Sドルまで)には追加利息が付き、55歳未満で最大年5%・55歳以上で最大年6%の利回りが政府保証で得られます
- 55歳になると退職口座(RA)が新設されて特別口座は閉鎖され、65歳から終身の年金として毎月受け取る仕組み(CPF LIFE)につながります
なぜ生まれたか:「政府が配る」のではなく「本人名義で貯めさせる」
CPFの創設は1955年7月、まだ英国の植民地だった時代です。当時の英国本国では税財源で高齢者を支える年金が主流でしたが、シンガポールはその道を選びませんでした。財政負担の大きい「政府が配る年金」ではなく、働く本人と雇用主が、本人名義の口座に強制的に貯めるという低コストの設計を採ったのです。
設計思想は「税ではなく、自分の資産」。払ったお金は国庫に消えて誰かに再分配されるのではなく、自分の口座の残高として毎月明細で確認できる。政府の役割は制度の運営と金利の保証に限られ、現役世代から高齢世代への「仕送り」は仕組みとして存在しません。
1965年の独立後、この仕組みを国づくりの道具に変えたのがリー・クアンユー政権です。1968年からCPFの積立金を公団住宅(HDB)の購入代金やローン返済に使えるようにし、「借家人の国民」を「持ち家の国民」へ誘導しました。老後のための貯蓄が、そのまま住宅政策のエンジンになった——ここがCPFを世界的にユニークな制度にした転換点とされています。
結果:持ち家率9割。ただし「自分の残高がすべて」の世界
- シンガポール統計局によると、居住世帯の持ち家率は91.2%(2025年)。日本の持ち家率は60.9%(総務省・令和5年住宅・土地統計調査)ですから、30ポイントの差があります
- 金利は政府保証で、普通口座2.5%・特別/医療/退職口座4%を下回りません。給与天引きの「強制貯蓄+複利」が数十年続くため、個人の資産形成装置としては強力です
- 55歳時点では、フル退職準備金(FRS)=22万400Sドル(2026年に55歳になる人・約2,600万円)を退職口座に確保した上で、超過分だけ引き出せます。上限の拡張退職準備金(ERS)44万800Sドル(約5,300万円)まで積み増して、終身の受取額を増やすこともできます
一方で、この設計への批判も明確です。メリットだけの制度ではありません。
- 流動性が低い:原則55歳まで引き出せず、失業や困窮でも老後資金には手を付けられません(住宅・医療など決められた用途を除く)
- 再分配機能がない:積立額は賃金に比例するため、低賃金の人や就労歴の短い人には貯まりません。「働けなかった人」を支える機能は別の公的扶助に頼ることになり、格差がそのまま老後に持ち越されるという指摘があります
- 資産が家に化ける:普通口座を住宅につぎ込むほど老後の現金は減ります。持ち家率9割の裏で「家はあるが老後資金が足りない」という課題が指摘されてきました
- リスクは個人持ち:受け取れる額は自分の残高次第。長生きリスクにはCPF LIFE(終身年金化)で対応しますが、インフレで実質価値が目減りするリスクは基本的に個人が負います
日本との比較:積立方式と賦課方式、設計思想の根本差
日本の公的年金は、いま働く世代の保険料で、いまの高齢者の年金をまかなう賦課方式(+積立金の活用)です。自分の口座に貯まるCPFとは、お金の流れが根本から違います。
| シンガポール(CPF) | 日本(公的年金) | |
|---|---|---|
| 方式 | 積立方式(本人名義の口座) | 賦課方式+積立金の活用 |
| 負担率 | 合計37%(本人20%+雇用主17%・55歳以下) | 厚生年金18.3%(労使折半で本人9.15%)/国民年金は定額で月17,920円(2026年度) |
| お金の行き先 | 自分の3つの口座(住宅・医療・老後) | いまの高齢者への給付(世代間の支え合い) |
| 使いみち | 老後のほか住宅購入・医療費にも使える | 老齢・障害・遺族年金(現金給付の保険) |
| 再分配・保険機能 | 原則なし(残高がすべて) | あり(低所得層に手厚い給付設計・障害/遺族保障) |
| 強い場面 | 少子化の影響を直接受けにくい | インフレ・長生きに強い(物価・賃金に連動) |
| 弱い場面 | インフレ・格差・流動性 | 現役世代の減少(マクロ経済スライドで給付調整) |
注意したいのは、これはどちらが優れているという話ではないことです。積立方式は人口構成の影響を受けにくい代わりに、インフレや長寿のリスクを個人が背負います。賦課方式は「いまの現役がいまの高齢者を支える」ため少子高齢化の影響は受けますが、給付が物価や賃金に連動し、障害・遺族への保障という保険機能を持ちます。国民年金は払い損かを検証した記事で詳しく解説したとおり、日本の年金を単純な「積立の損得」で評価すると本質を見誤ります。
日本でCPFに一番近いのはiDeCo。ただし規模が違う
「自分名義の口座に老後資金を積み立て、途中で引き出せない」という点で、日本でCPFに最も近いのはiDeCo(個人型確定拠出年金)です。掛金が全額所得控除になる強力な制度ですが、CPFとは位置づけがまったく違います。
- 任意加入:CPFは全員強制、iDeCoは自分で申し込んだ人だけ
- 限度額が小さい:iDeCoの拠出限度額は自営業者で月6.8万円、会社員は月2.3万円(企業年金なし)または月2.0万円(企業年金あり)。給与の37%・月最大約36万円が積み上がるCPFとは桁が違います(なお、日本では拠出限度額の引き上げが決まっており、施行時期などの最新情報は公式の確認が必要です)
- 使途は老後のみ:CPFのように住宅や医療には使えず、原則60歳まで引き出せません
逆に言えば、日本の会社員は厚生年金という「賦課方式の土台」の上に、iDeCoやNISAで「積立方式の2階」を自分で足せる立場です。iDeCoの節税効果と申告手順の記事で試算しているように、掛金の所得控除だけで年数万円の税負担が変わります。
日本人に関係するケース:駐在員はCPFに「入れない」
シンガポール勤務が決まった人がまず知っておくべきなのは、外国人はCPFに加入できないことです。CPFの対象はシンガポール市民と永住者(PR)のみで、就労パス(EPなど)で働く日本人駐在員は本人負担も雇用主負担もありません。「給与の37%も引かれるのか」という心配は不要です。
- 社会保障協定はない:日本は24か国と社会保障協定を結んでいますが、シンガポールは含まれていません。もっとも外国人はそもそもCPFの対象外のため、保険料の「二重払い」は基本的に起きません。日本の会社からの出向・駐在であれば、日本の厚生年金にそのまま加入し続けるのが一般的です
- 現地採用は年金の空白に注意:現地法人に直接雇用され日本の厚生年金から外れる場合、CPFにも入れないため、何もしないと年金加入期間が空白になります。海外居住中の日本人は国民年金に任意加入できるので、将来の受給額と障害・遺族保障を維持したい人は手続きを検討してください
- 永住者になった場合:PRを取得するとCPFへの加入が義務になります(取得後2年間は軽減された料率)。その後PRを放棄して完全に帰国する場合は、CPF口座を閉鎖して残高を全額受け取ります。帰国後に受け取る場合の日本での課税は受取時期や居住状況で扱いが変わるため、税理士など専門家への確認をおすすめします
なお、シンガポールは相続税がなくキャピタルゲインも原則非課税のため、富裕層の移住先として常に名前が挙がる国です。日本側から見た海外移住と税金の論点は外国人富裕層の日本移住と税金の記事で整理しています。
今日やること
今日やること
- ねんきんネットにログインし、自分の年金記録と将来の受給見込額を確認する(CPFと違い残高は見えないからこそ、見込額の把握が第一歩です)
- 給与明細の厚生年金保険料(本人9.15%)に同額の会社負担分を足して、毎月いくらが「見えない拠出」になっているか書き出してみる
- iDeCoの自分の拠出限度額(会社員2.3万円/2.0万円・自営業6.8万円)を確認し、未利用なら金融機関1社の資料請求から始める
よくある質問
Q. CPFは税金なのですか?
A. 税金ではありません。積み立てた全額が本人名義の口座に貯まり、住宅・医療・老後に本人が使う「強制貯蓄」です。ただし毎月の給与から本人分20%が天引きされるため、手取りを減らす負担感は税や社会保険料と変わりません。「負担のかたち」ではなく「お金の行き先」が日本の年金保険料と根本的に異なります。
Q. 日本人駐在員もCPFに加入する必要がありますか?
A. いいえ。CPFの対象はシンガポール市民と永住者のみで、就労パスで働く外国人は加入できません(本人負担も雇用主負担もなし)。日本企業からの出向なら日本の厚生年金に継続加入するのが一般的です。現地採用で日本の厚生年金から外れる場合は、国民年金への任意加入を検討してください。
Q. シンガポールの方が日本より老後は安心なのですか?
A. 一概には言えません。CPFは自分の残高が老後の給付を決める積立方式のため、低賃金だった人には貯まらず、インフレによる目減りリスクも個人が負います。日本の賦課方式は少子高齢化の影響を受ける一方、給付が物価・賃金に連動し、障害・遺族保障という保険機能もあります。設計思想の違いであり、優劣の問題ではありません。
Q. CPFの積立金は途中で引き出せますか?
A. 原則55歳まで引き出せません。ただし普通口座は住宅購入や住宅ローン返済に、医療口座は入院・手術費用や公的医療保険料に、口座から直接使えます。55歳になると、所定の退職準備金(2026年に55歳になる人で22万400Sドル)を退職口座に確保した上で、それを超える分を引き出せるようになります。
参考リンク(出典)
※ 数値は2026年8月時点の公表資料にもとづきます。シンガポールドルの円換算は1Sドル=120円の概算です。CPFの料率・退職準備金は年により改定されるため、最新はCPF公式で確認してください。本記事は制度比較の一般的な情報提供であり、個別の年金・税務のご判断は税務署・税理士・年金事務所など専門家にご確認ください。



